2010年06月26日
北の国へ 2
北の国に旅立つきっかけは
一旦目指した 芸術の世界と
一般人として暮らす こちらの世界を
潔く 整理し こちら側に戻って暮らす決断をするためだった。
当時 僕を取り巻く世界は
17歳から23才までの たった7年間だが
Artに 明け暮れた毎日だった。
友人も いつの間にか そういう世界の人間ばかりになり
こちら側の世界の友達と言えば
上野の美術館での 気のおけない友人と
こちらの世界に留まるためにいてくれたような
片思いの マドンナだけだった。
青春は恋に満ち満ちた時代で
当然 心よせる女性もいたが
絵を真剣に描く女性に対して
この先 Artを貫ける自信が揺らいでいた自分は
どんなに魅力的な女性でも 距離を置いて接しており
打算的で 青年らしからぬ 恋とも呼べない恋をしていた。
逆に高校生の時 ふと恋心を抱いた女性に対して
あちら側の世界で学びながら
平凡で穏やかなこちら側の世界を象徴するような
どちらかと言えば Artの世界へ行ったまま戻ってこれない自分が怖くて
踏みとどめてくれる役を 勝手に彼女の中に求めていたようだ。
呆れるが 彼女にとっては迷惑な話で
とんでもない奴に 取りつかれてしまったわけで
今となっては 反省しきり。本当に申し訳なかった思いでいっぱいです。
でも優しくて素敵は人だった。
当時は据え付けの電話も ましてや携帯電話など夢のような道具もなく
古風にも 手紙のやり取りで 着信拒否もできないから
彼女は厭々でも 付き合わないわけにもいかなかった。
今なら 即 ストーカー行為で新聞沙汰だったろうが
最後まで 我慢してくれ 訴えもなく穏便に 終わりを告げてくれた。
もしも 自分の娘に こんなのがまとわりついたら ただじゃ済まんだろう。
定職もなく 学歴もなく、芸術にはまりこんで 風体も宜しからぬ
親からすれば最悪 本人にとっても迷惑なストーカーだ。
良識ある優秀な同級生と結婚して 都会で幸せに暮らしていると 風のたよりに聞く。
この店を始めた最初の正月 まさしくバッタリ
店の前を参拝で訪れた彼らと 夫婦どうしで遭遇してしまった。
まさかこんな所で 僕が商売してるとも知らず
お互いに あまりに気まずい不意打ちの一瞬だったが
深呼吸して 久しぶりの挨拶を済ませ別れた。
脇の子供は うちの次女と同い歳だった。
あれ以来 二度と彼らと会うことはない。
よく知るクラスメイトが恋人と知った時は
それと知らずに手紙を送り続けていた間抜けを悔やみ
しばらくの期間 頭の中が真っ白で 虚脱したが
フォークソングがビタミン剤代わりだった僕に対し
コルトレーンやマイルス・デイヴィスが好き(多分彼ら共通の好みと思われ)という
好みの質の違いを さりげなく告げられた時 ピンとこなくちゃいけなかったのに
密かにコルトレーンを 意味も分からず 無理して聞いて理解しようとしいた トンマでした。
(最近では ディヴィスも素敵に聞けるお年頃になりましたが)
北を旅する どちらかと言えば現実からの逃避行為を思って
その痛手から 少しでも逃れようとした。
学生生活との決別も意味する旅だったし
バイクで 一人 遠い北の国を彷徨うのは
きっと 新たなスタートの為のきっかけになると信じたかった。
アルバイトのない週末 よくXLを駆って 奥多摩に朝から出かけた。
もちろん一人で 気ままに 地図とおにぎりと水筒だけ背負って
林道を走って 登山口の近くにバイクを置いて
もくもく山頂を目指す。
尾根を歩き 沢の水をふくみ 緑を胸いっぱいにする。
そんなに高い山でなく 雲取山だの三頭山だの鷹ノ巣山など
暗くなる前にバイクの場所まで戻って
夜道を府中のアパートまで、その日の内に戻ってこれる場所ばかりだったが
あの失恋を乗り切るには その程度の 軟弱な旅では らちがあかなかった。
まずは 青森から津軽海峡を渡って はるばる来たぜ函館へ~ と絶叫しなければ
あの辛さを断ち切ることは不可能と思い込んだ。
松山千春や中島みゆきの 歌の源泉に触れられたら
岬の先に立って 岬巡りを思いっきり歌えば
このつらさから 吹っ切れるかもしれないと 甘く甘く考えた。
旅のプラン、道具の用意、旅費の蓄え、YH会員手配
それらで頭をいっぱいにすることで 辛い事を忘れる努力とした。
バイト先でも 失恋は一切口にせず
北海道旅行の楽しげな話題でいっぱいにし
しばらくバイトを休む事への 不義理を
精一杯働くことでチャラにしてもらおうと努めて頑張った。
用意した荷物に カメラとスケッチブックは 入れない決意を込めた。
一旦目指した 芸術の世界と
一般人として暮らす こちらの世界を
潔く 整理し こちら側に戻って暮らす決断をするためだった。
当時 僕を取り巻く世界は
17歳から23才までの たった7年間だが
Artに 明け暮れた毎日だった。
友人も いつの間にか そういう世界の人間ばかりになり
こちら側の世界の友達と言えば
上野の美術館での 気のおけない友人と
こちらの世界に留まるためにいてくれたような
片思いの マドンナだけだった。
青春は恋に満ち満ちた時代で
当然 心よせる女性もいたが
絵を真剣に描く女性に対して
この先 Artを貫ける自信が揺らいでいた自分は
どんなに魅力的な女性でも 距離を置いて接しており
打算的で 青年らしからぬ 恋とも呼べない恋をしていた。
逆に高校生の時 ふと恋心を抱いた女性に対して
あちら側の世界で学びながら
平凡で穏やかなこちら側の世界を象徴するような
どちらかと言えば Artの世界へ行ったまま戻ってこれない自分が怖くて
踏みとどめてくれる役を 勝手に彼女の中に求めていたようだ。
呆れるが 彼女にとっては迷惑な話で
とんでもない奴に 取りつかれてしまったわけで
今となっては 反省しきり。本当に申し訳なかった思いでいっぱいです。
でも優しくて素敵は人だった。
当時は据え付けの電話も ましてや携帯電話など夢のような道具もなく
古風にも 手紙のやり取りで 着信拒否もできないから
彼女は厭々でも 付き合わないわけにもいかなかった。
今なら 即 ストーカー行為で新聞沙汰だったろうが
最後まで 我慢してくれ 訴えもなく穏便に 終わりを告げてくれた。
もしも 自分の娘に こんなのがまとわりついたら ただじゃ済まんだろう。
定職もなく 学歴もなく、芸術にはまりこんで 風体も宜しからぬ
親からすれば最悪 本人にとっても迷惑なストーカーだ。
良識ある優秀な同級生と結婚して 都会で幸せに暮らしていると 風のたよりに聞く。
この店を始めた最初の正月 まさしくバッタリ
店の前を参拝で訪れた彼らと 夫婦どうしで遭遇してしまった。
まさかこんな所で 僕が商売してるとも知らず
お互いに あまりに気まずい不意打ちの一瞬だったが
深呼吸して 久しぶりの挨拶を済ませ別れた。
脇の子供は うちの次女と同い歳だった。
あれ以来 二度と彼らと会うことはない。
よく知るクラスメイトが恋人と知った時は
それと知らずに手紙を送り続けていた間抜けを悔やみ
しばらくの期間 頭の中が真っ白で 虚脱したが
フォークソングがビタミン剤代わりだった僕に対し
コルトレーンやマイルス・デイヴィスが好き(多分彼ら共通の好みと思われ)という
好みの質の違いを さりげなく告げられた時 ピンとこなくちゃいけなかったのに
密かにコルトレーンを 意味も分からず 無理して聞いて理解しようとしいた トンマでした。
(最近では ディヴィスも素敵に聞けるお年頃になりましたが)
北を旅する どちらかと言えば現実からの逃避行為を思って
その痛手から 少しでも逃れようとした。
学生生活との決別も意味する旅だったし
バイクで 一人 遠い北の国を彷徨うのは
きっと 新たなスタートの為のきっかけになると信じたかった。
アルバイトのない週末 よくXLを駆って 奥多摩に朝から出かけた。
もちろん一人で 気ままに 地図とおにぎりと水筒だけ背負って
林道を走って 登山口の近くにバイクを置いて
もくもく山頂を目指す。
尾根を歩き 沢の水をふくみ 緑を胸いっぱいにする。
そんなに高い山でなく 雲取山だの三頭山だの鷹ノ巣山など
暗くなる前にバイクの場所まで戻って
夜道を府中のアパートまで、その日の内に戻ってこれる場所ばかりだったが
あの失恋を乗り切るには その程度の 軟弱な旅では らちがあかなかった。
まずは 青森から津軽海峡を渡って はるばる来たぜ函館へ~ と絶叫しなければ
あの辛さを断ち切ることは不可能と思い込んだ。
松山千春や中島みゆきの 歌の源泉に触れられたら
岬の先に立って 岬巡りを思いっきり歌えば
このつらさから 吹っ切れるかもしれないと 甘く甘く考えた。
旅のプラン、道具の用意、旅費の蓄え、YH会員手配
それらで頭をいっぱいにすることで 辛い事を忘れる努力とした。
バイト先でも 失恋は一切口にせず
北海道旅行の楽しげな話題でいっぱいにし
しばらくバイトを休む事への 不義理を
精一杯働くことでチャラにしてもらおうと努めて頑張った。
用意した荷物に カメラとスケッチブックは 入れない決意を込めた。
Posted by げんきくん at 21:13│Comments(0)
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